2026-07-11

なぜ人は、台風は普陀山を避けて通ると信じてしまうのか

江浙沿海で長く語り継がれてきた言い伝えがある。普陀山には観音の加護があり、台風がここまで来ると、必ず迂回して去っていく。

私が作った話ではない。ネット上には「普陀山はなぜ台風が迂回するのか」を大真面目に論じた文章がいくらでも転がっていて、どれも神がかった調子で語る――観音菩薩の霊場、四大仏教名山の一つ、南海観音がそこに立っている、どんなに猛烈な台風も島の際まで来ると自ら向きを変える、と。信じている人は多く、語るときには「あなたは信じないだろうが、事実はこうなのだ」という一種の確信すら滲ませる。

だが、まさに今日、この言い伝えはしたたかに顔を張られている。

今年の第 9 号台風「巴威」の影響で、普陀山の旅客フェリーは 7 月 9 日から欠航となり、普陀山国際空港は 7 月 10 日に 14 便を欠航、普陀区のすべての漁船・レジャー船は夜通し沈家門西埠頭へ避難した。観音は台風を普陀山から逸らしてはくれなかった――むしろ島全体を前もって閉じさせた。しかもこれは「巴威」が浙江南部寄りに逸れ、正面から直撃しなかった場合の話だ。2021 年に至っては言うまでもない。台風「烟花」が舟山普陀区の沿海に上陸し、普陀山-朱家尖一帯はまさに激甚被災地となり、6000 メートルを超える道路が海水の逆流で水没した。(ついでに言っておくと、普陀山も普陀区も、どちらも舟山市に属する土地だ――舟山の外にある別の場所ではなく、舟山が東シナ海に真正面から向けたその「顔」なのだ。)

だから事実ははっきりしている。普陀山は台風の絶縁体ではない。台風の通り道の真ん中に立っていて、今日まさに殴られている。 ならば本当に問うべきは「観音はなぜ台風を防げるのか」ではなく――なぜ、毎年のように台風で欠航し島を閉じる場所で、人はいまだにここは神に守られ、台風は迂回すると信じ続けるのか、である。

この問いの答えは、台風そのものよりずっと面白い。なぜなら「普陀山」という三文字を「ある偉大なプロダクトマネージャー」に置き換えても、一文字も直す必要がないからだ。

「台風は迂回する」と言える人は、そもそも選別を通り抜けた人だ

まず一番刺さる層から話そう。

「見てみろ、台風がまた普陀山を避けていった」――この一言には、隠れた発言資格がある。事故に遭わなかった年の、吹き飛ばされなかった人だけが、それを口にする機会を持つ。

「烟花」が普陀山-朱家尖を水没させたあの年、島の人々は避難に、復旧に、水に浸かった物を高い場所へ運ぶのに追われていて、「菩薩の加護で台風が迂回した」などと感慨にふける余裕は誰にもなかった。一方、今年の「巴威」は南へ去り、普陀山は欠航こそしたが正面からひっくり返されはしなかった。だから数日後、参拝客が島に戻れば、「見てみろ、ここには観音の加護がある」というあの一言が、また自然に湧いて出る。

あなたが耳にする「台風は普陀山を避けて通る」というひと言ひと言は、たまたま正面直撃を免れた年の、たまたま吹き飛ばされなかった口から出てくる。 事故に遭った年、そのとき何も言えなかった人々は、存在しないのではない。彼らの声が、この「伝説」のサンプルに入り込めないだけだ。

統計学ではこれを生存者バイアスと呼ぶ。その最も典型的な形はまさにこうだ。語る人自身が、選別の結果である。 あなたは自分が法則を観察しているつもりでいるが、実際はただ生存者の話を聞いているにすぎない――そして生存者は永遠に「自分がどう生き延びたか」しか語らない。生き延びなかった側がどうだったかは語らない。生き延びなかった者は、口をきかないからだ。

さらに厄介なのは、記憶というふるいそのものがえこひいきをすることだ。二十年のあいだに台風が十数回かすめ、たまに正面から来る。あなたの脳は「かすめた」ものを自動的に「ほら、菩薩がまた守ってくれた」とコレクションし、「正面から来て道路を水没させた」一、二回を「あの年は逃れられない厄年だった」とアーカイブする――片方は法則に数え、もう片方は事故に数える。すべては、あなたが元々信じたかったあの一言に沿うか否かで決まる。

台風をたまに逸らすのは、亜熱帯高気圧であって、観音ではない

記憶がえこひいきするだけなら、まだ受け身の間違いだ。「直撃を免れた」ことを能動的に観音の手柄にするのは、そこからさらに一歩踏み込んだ間違いだ――この一歩を、誤帰属という。

科学的には「普陀山の台風がたまに迂回する」ことにはちゃんと説明がある。西太平洋の台風がどこへ進むかは、主に亜熱帯高気圧の指向流に引っ張られて決まる。高気圧の西側の指向流の向きが変化すると、台風は東シナ海一帯で進路を変える――これは海域全体を支配する大スケールの気象メカニズムであって、どこかの島を相手にしているわけではない。普陀山がたまに一度「逃れた」かどうかは、その隣の桃花島や朱家尖が逃れたかどうかと、同じ一本の指向流によって決まる。島に菩薩がいるかどうか、香火が盛んかどうかとは、これっぽっちも関係がない。

だが人の心には頑固な癖がある。統計と物理で説明できる現象を前にして、私たちはよりによって「主役」のいるバージョンを信じたがる。 「亜熱帯高気圧の西側の指向流の向きの変化」は冷たすぎて、体温がなさすぎる。「観音菩薩が手を伸ばして台風を押しのけた」には主役がいて、意志があり、物語があり、おまけに「私は守られた場所に住んでいる」という安心まで付いてくる。こうして、正しいが退屈な説明は捨てられ、心を打つが間違った説明は祭壇に祀られる。

この動作を覚えておいてほしい。構造的で統計的な現象を、特定の主体が持つ神秘の力に帰属させる。 これが普陀山伝説のすべての秘密だ。そしてこの動作を、あなたは別の場所で毎日目にしている。

「普陀山」を「偉大なプロダクトマネージャー」に置き換える

私たちが崇める「未来が見える」あのプロダクトマネージャーたちは、同じふるいで選別され、同じ誤帰属で祭壇に祀られた人たちだ。

スティーブ・ジョブズはスマートフォンを「予言」し、ジェフ・ベゾスはクラウドコンピューティングを「予見」し、ジェンスン・フアンは「十年前に GPU に賭けて当てた」――振り返ってみれば、彼らは預言者のように見える。台風が来る前から、どこへ逃げるべきかを知っていた人のように。だが注意してほしい。私たちは、彼らが賭けに勝ったからこそ、後から彼らを預言者と呼んだのだ。

彼らと同じ時代に、同じように自信満々で、同じように「私は未来を見た」と宣言した人々のうち、Newton の携帯端末を作った者、Web TV を作った者、Google Glass を作った者、あらゆる「世界を変える次の大きなもの」を作って砂浜で死んでいった者は、何万人といる。この人たちの当時のプレゼン資料も、同じように胸を躍らせ、同じように「未来が見えて」いた。ただ賭けに外れただけだ。外れた人は「預言者」の名簿には書き込まれない。彼らはそのまま物語から消えていった――「烟花」に水没させられたあの普陀山が、「台風は迂回する」伝説に入り込めないのと同じように。

「預言者」と「観音の加護」は同じものだ。生存を、特定の主体に属する神秘の力に帰属させる。 普陀山が直撃を免れたのは指向流のせいなのに、人はそれを観音の霊験と記憶する。プロダクトマネージャーが賭けを当てたのは生存者バイアスと連続ベッティングのせいなのに、人はそれを彼が未来を予知する天賦だと記憶する。片方は気象を菩薩に帰し、もう片方は統計を天才に帰す。まったく同じ認知の動作だ。あなたは「偉大なプロダクトマネージャーはなぜ未来を予知できるのか」を研究しているつもりでいるが、実際はただ、一人の生存者に神話を一つ継ぎ足しているにすぎない。

では、達人と生存者の本当の違いはどこにあるのか

もし「預言者」が幻覚なら、ジョブズや張小龍のような人たちは、普通のギャンブラーとどこが違うのか。

彼らがカオスを予測できることではない。台風の具体的な進路はカオス系であり、気象台がスーパーコンピュータを使っても、せいぜい二、三日前に確率を出せるだけだ。プロダクトマネージャーに技術や市場の動向を「予知」しろと期待するのは、参拝客が信心の深さで台風が曲がるかどうかを言い当てられると期待するのと同じで、運を実力と、気象を奇跡と取り違えている。

本当の違いは、もっと素朴で、もっと硬い二つのことにある。

第一に、彼らは賭ける回数が十分に多く、しかも毎回、賭けても大丈夫な範囲で賭けている。 ジョブズはアップルに復帰したあと、一度当てたのではない。iMac、iPod、iPhone、App Store と連続で賭け、途中で Ping や MobileMe のような車もひっくり返している。彼は毎発命中させたわけではない。テーブルに残り続け、外れても致命傷にならず、当たれば満額を取る――それをやっただけだ。一度しか賭けない人は、当たれば奇跡、外れれば退場。二十年連続で賭け続け、毎回負けても平気な人は、長い目で見れば必ずいくつか大きいのを当てる――そして後から預言者と追認される。これは予知ではなく、持続可能なベッティングだ。 大数の法則に観音はいらない。

第二に、彼らは天気を賭けない。定数を賭ける。 張小龍が微信を作ったのは、微信が勝つと「予測」したからではない。彼が賭けたのは「人は邪魔されるのを嫌う」ということ――これは数十年、数百年変わらない人間性の定数であって、台風の進路のような、次の一秒で変わるカオスではない。本物の達人には共通のずる賢さがある。予測不能なものを予測しにいかず、大きな賭け金を「長いあいだ変わらない」ものに置く。

この二つを噛みしめると、それが「観音の加護」「預言者の天賦」とちょうど正反対だと分かる。信仰のバージョンはこうだ――ある神秘の力がカオスを見通し、私の代わりに台風を防いでくれる。だが本物の達人のバージョンはこうだ。私は台風を言い当てられないと認める。だから台風がどこへ行くかなど、そもそも賭けない――私はただ「堤防を十分に高く築く」という確実なことだけを賭ける。 片方は不可知を賭け、もう片方は確実性を賭ける。前者は生存者バイアスの原料であり、後者こそが本物の堀だ。

今日、欠航した埠頭に戻ろう

だから「台風は普陀山を避けて通るか」は、生存者だけが問う問いだ。それは選別を通り抜けた、生存した視点を前提にし、その中に存在しない法則を探し、最後に手柄を菩薩の頭に記す。

本当に問うべきは「観音は私の代わりにそれを防いでくれるか」ではなく、「今回もし正面から来たら、私は持ちこたえられるか」だ。前者は運命を運と記憶と香火に委ねる。後者は運命を、自分で築いた堤防の高さと、前もって発せられたあの欠航令の中に握る。今日、普陀山のあの観光客たちを救ったのは、島の香火ではない。7 月 9 日に止めたフェリーと欠航した 14 便だ――自分には台風を防げないと認め、だから前もって避ける、その冷静さこそが、「迂回伝説」のちょうど反対側にある。

プロダクトも同じだ。「私が賭けたこの方向は正しいのか、私は未来を見たのか」と問い詰めてはいけない――それは預言者崇拝であり、自分のために観音像を一体求めているだけだ。問うべきはこうだ。外れたら私は死ぬか。当たったら満額を取れるか。私が賭けているのは変わる天気か、それとも変わらない人間性か。 この三つの問いにきちんと答えられる人は、預言者である必要も、菩薩を必要とすることもない。彼はただ外れても平気で、そのうえで確実性に大きく張り、あとは時間に委ねればいい――時間は彼もまた「遠くまで見えていた一人」として追認する。ちょうど、たまたま直撃を免れたひとつひとつの年を、「観音の霊験」として追認したように。

今日「巴威」は南へ去り、普陀山は欠航し、島を閉じ、おそらく無事にやり過ごせるだろう。だが今回それを逃れさせたのは、観音の手ではない。亜熱帯高気圧の、気まぐれに変わるあのちょっとした機嫌だ。次にあの気流が曲がらなければ、菩薩にも止められない。そのとき、人を救うのはいつだって信仰ではない。堤防だ。

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